原爆、戦禍の樺太、占領下の東京-。



今年ラジオ各局で放送される戦争特番の題材です。アナウンサーが自身のルーツを訪ねて取材したり、物語を朗読したりと工夫を凝らした番組が並ぶ中、元モーニング娘。の新垣里沙さんが「僕」の一人称で語るのは、8月10日、ラジオ日本で放送される、横浜大空襲で壊滅的な被害を受けた街・本牧の記憶



原爆や東京大空襲に比べて語られることが少ない横浜大空襲の話を、街の変遷を通して知ってもらおうと多世代に取材した「僕」こと、自身も本牧在住のラジオ日本ディレクター・星崎直也さんに、番組にかける思いをお聞きしました。(冒頭画像:加藤甫撮影)

ウィルソン 麻菜
1990年東京都生まれ。製造業や野菜販売の仕事を経て「もっと使う人・食べる人に、作る人のことを知ってほしい」という思いから、主に作り手や物の向こうにいる人に取材・発信している。刺繍と着物、食べること、そしてインドが好き。

剣さんに打診して自分を追い込んだ

‐今回の企画は、どんな経緯で決まったんですか?

朝のニュース番組の3.11に関する企画の話をしている中で、「来年は戦後70周年だよね」という話をしたことがきっかけだったと思います。

ラジオ日本は、基本的に番組の多くが東京からで、横浜の番組もありますが多くはないんです。

そんな中で、自分が横浜生まれなので、横浜でも空襲ありましたよねっていう話をしたら、「知ってるけどあまり知らないね」みたいな話になって。

そういうものを振り返る番組があってもいいんじゃないかと思ったんですね。

プロデューサーとも話をして、ぼんやりやるということは決まりましたが、どういう形にするとか、どんな取材をするかは全然決まっていなかったんです。

自分が街に出て取材をすることはいつでもできるんですけど、それだけやっても、何となく流れそうな気がしたので(笑)、何か後ろに戻れないようなことをしてやろうと思って、今年の2月ぐらいに、クレイジーケンバンドの横山剣さんに出演の打診をしました。それでOKをいただいたので、もうやるしかないと。

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‐かなり前から準備されているんですね。普段はどんな番組を担当されているんですか?

朝の「岩瀬惠子のスマートNEWS」というニュース番組のADと企画のディレクターとか、アイドルの番組、かと思うと、歌謡曲の作曲家の先生の番組ですとか、ド深夜にお笑い芸人さんとしゃべってみたりも。けっこう節操無くやっています(笑)。

人が少ないので、いろんな種類の番組に関わることができるのは、いい経験になっています。

‐もともとは、どんな番組を希望されてたんですか?

深夜帯に、10代・20代に向けた番組をやりたかったんです。現在担当している夕方の「60TRY部(ロクマルトライブ)」という3時間の生放送番組では、若者向けに流行情報や最新アーティストの曲を流していて、僕のやりたいことに近づいている感じはあります。

自分が中学生ぐらいの時にラジオを聴き始めて、面白さにハマっていったので、なかなかラジオを聞かない若い世代に聞いてもらいたい、という思いがありますね。

‐今回の特番も、そういった年代の人向けに?

今は10代・20代に限らず、戦争を経験してない人が主体の世界なので、そういう人に聴いてほしいなと。

番組を作るにあたって、本牧じゅうの人に話を聞いてとか、いろんな証言を出す、ということは考えたんですけども、当時の証言をいっぱい八百屋さんみたいに並べても、なかなか聴く気が起きないんじゃないかと思ったんですよ。

今の話も含めて、だんだん昔の話をしていくことで惹きつけたいなと思っていて、その橋渡しになるのが剣さんであったり、新垣さんだったり。

どうしても戦争の話っていうと異世界感がすごくあるんです。やっぱり他人事感が否めないというか。

だからこそ、今とそこをつなげることによって、こういう事が本当にあったんだよっていうリアリティを持たせたかったんです。

1953年頃の山手警察署前 写真:生駒實

1953年頃の山手警察署前 写真:生駒實)

 

 

「かっこいいもの」は残っているけど、「それがなぜあるのか」を伝えるものは残っていない

 

1982年頃の米軍海兵住宅 写真:LIGHTHOUSE

 (1982年頃の米軍海兵住宅 写真:LIGHTHOUSE)

 

‐本牧にスポットを当てた理由は?

自分が住んでいるというのがやはり一番大きいですが、ずっと住んでいたわけじゃなくて、3〜4年出てたんです。

以前テレビの仕事をしていたときに、都内や川崎に引っ越して。たまに時間があると、本牧に帰ってきてたんですが、やっぱり普通の街じゃないなという印象を受けるわけです。

‐普通の街じゃないとは?

いや、遠いじゃないですか。すごく遠いんだけど、なぜかみんな普通に暮らしている。

本牧通りをタクシーやバスで走っていると、多少夜やってる店もあるんですね。明かりが点いていて。

でも、入りにくい。なんでかというと、昔から続いてそうな店で、なんか受け付けてくれなさそうな店が多いんです。

なんだかこう、今であって今でないような街のつくりが、まだ残っていて。

でも、昔と違って、ショッピングセンターをつぶしてマンションを作っているくらい新しい人が入ってきていて、新しい建物もいっぱいある。

ほかの番組のADの両親が、昔から本牧に住みたいと言っていて、定年を迎えて本当に引っ越したらしいんです。

そんなにあこがれるとこですかってさんざん言いましたけどね(笑)。なんであんな不便なところに住みたがるんだろうってほんとに思ってたんですから。

 

現在の本牧通り
(写真:現在の本牧通り)

 

ラジオをやるようになって、実家に戻ってきてからは、機会があれば、この街をフィーチャーしたいと思っていました。

街の中にいると、どういう特徴があってとかって、あまり気にならないものですが、一度出たことで、目線が俯瞰になったことも大きいと思います。

たまに行くんですが、本牧山頂公園の景色がけっこうきれいなんです。夜もきれいなんですよ、遠くに工場の明かりが見えて。

 

写真:加藤甫

 (写真:加藤甫)

 

‐街の話と戦争の話から、どんなメッセージを伝えようと考えたのでしょうか。

7月の中旬に、広島に弾丸で行ってきたんです。そこで気づいたことが番組の結論になっています。

改めて原爆ドームを見てきて、昔の建物なので、いろんな所にひびが入ってたりするんですが、当たり前のことなんですけど、それをちゃんと埋めてたりするじゃないですか。

保全をするっていうことにすごく力を入れてる感じがしたんですね。

ああ、こういうのが本牧にないんだなと思ったんです。いわゆる遺構ですね。

だからここが、焼け野原になったとか、何もなかったっていう話が残らないのかなって。

戦争を感じるものが目に入らないんです。

もちろん街がきれいになっていったっていうことは良いことなんですけど。

それじゃあ忘れちゃうよねっていうのもわかるかなという気がしたんです。

戦後のカッコイイものはぎりぎり残っているんですけど、それがなぜあるのかを伝えるものは、あんまり残ってないんですよね。

だからこそ今、何ができるかを、聞いた人に考えていただきたいと思っています。

 

70年で薄れる記憶

1953年頃の本牧小学校校庭 写真:生駒實

(1953年頃の本牧小学校校庭 写真:生駒實)

 

‐ラジオだからこそ、伝えられることはありますか。

テレビだと、ワンセンテンスを伝えるために、無駄なものを省いて、そこを目立たせるやり方をするんですけど、ラジオはそれをやってしまうと、間も何もなくなってどんどん話が進んでいってしまって、聴いている方が受け止められなくなってしまうんですよ。

本は自分のペースで読めるし、テレビは視覚情報がいっぱいあるのでなんとかなる。

ラジオって、あまり使い慣れない耳をずっと使って、情報を整理していかないといけないので、けっこう聴く方が大変なんです。

大事なことばっかりしゃべられてしまうと、教科書にマーカーだらけになるみたいなもので。

なので、途中に曲を入れたり、聴いた人が話を整理するような時間を与えるようにして、しゃべっていることも一つ一つはそんなに重要じゃないことかもしれないけど、その雰囲気が残るような作り方をしました。

テレビだったら5、6分で使えるような話かもしれないですけど、これをゆっくり時間をかけて、1時間で伝えています。

テレビカメラみたいにおおげさでなく、こっそり録ることができるので、かしこまらず話してもらえるんですね。

せっかくそうやって話して下さったものが、オンエアーで使う部分以外にもあるので、一緒にほかのエリアも取材に回っているカメラマンの加藤くんが撮った写真と合わせて、展示のような形で発表できたらいいねとも話しています。

本当は、外国人向けに商売をやっていた人とか、もっといろんな人の話を聞いたあとで吟味したかったんです。

知り合いに紹介を頼んだり、お店に入って聞いたりもしたんですけど、話してくれないことも多くて。

もう忘れたとか、もっと詳しい人がいるとか言って、自分からあまり情報発信してくれないんです。急に来て、70年前のこと語ってって言っても覚えてないですよね。

記憶があいまいだから、私じゃない方がいいんじゃないって。

経験しているはずなのにしゃべれない、それだけの年月が経ってるってことですよね。